一揆と打ちこわし


 百姓は村請制のもとで年貢や諸役など重い負担にたえていたが、幕府や藩の支配が彼らの暮らしや生産を大きく損なうときには、領主に対し村を単位に要求をかかげてしばしば直接行動をおこした。
 これを百姓一揆とよぶ。

 17世紀の初めは、徳川氏の支配に抵抗する武士をまじえた武力蜂起や逃散など、まだ中世の一揆のなごりがみられた。
 しかし17世紀後半からは村々の代表者が百姓全体の利害を代表して領主に直訴する一揆がふえ、17世紀末になると、広い範囲にわたる百姓が村々をこえて団結しておこす大規模な惣百姓一揆も各地でみられるようになった。
一揆に参加した百姓らは、年貢の増徴・新税の停止、専売制の撤廃などを要求し、藩の政策に協力している商人や村役人の家を打ち壊すなど実力行動もとった。



それに対し


 幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、一揆の指導者を厳罰に処した。
しかし、こうした弾圧にかかわらず、しばしば発生した凶作や飢饉を機に、百姓一揆は増加の一途をたどった。
 なかでも、1732年に西日本一帯で、天候不順のなか、いなごやうんかが大発生し稲を食い尽くして大凶作となり全国におよぶ飢饉となった。
このため民衆の暮らしは大きな打撃をうけ、江戸では翌1733年に、有力な米問屋が米価急騰の原因をつくったとして打ちこわされた。
 また1782年、東北地方の冷害からはじまった飢饉は翌年の浅間山の大噴火をへて、多数の餓死者をだす有数の大飢饉となり(天明の飢饉)、村々の荒廃のなかで数多くの百姓一揆がおこり、そして江戸・大坂などの都市では激しい打ちこわしが発生した。



注釈


江戸時代の百姓一揆は、これまでも3000件以上が確認されている。
下総の佐倉惣五郎、上野の磔茂左衛門のように、伝説的な一揆の代表者が義民とされることが多かった。
藩領全域におよぶことが多く、その場合は全藩一揆とよぶ。たとえば1686年の信濃松本藩の嘉助騒動、1738年の陸奥磐城平藩の元文一揆があげられる。
被害はとくに陸奥の諸藩でひどく、津軽藩などでは餓死者が十数万人にも達し、絶滅する村も多かった。

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